【この記事はこんなことが書いてあります】
- 筆者MOは思春期のころから障害への理解不足による不信感を経験していた
- できるだけ早く、自分の状態が障害によって(躁または鬱に)変化しているということを自覚すると、その後の対処がしやすくなる。
思春期ならではの障害者あるあるかもしれません
『気にしなければいいじゃん!』
『いちいち気にしてたら疲れるでしょ?』
『人の言うことを聞き流せないと社会ではやっていけないよ!』
思春期の頃から、かけられ続けた私にとっては悪魔のような言葉です(笑)
勇気を持ってコンプレックスをカミングアウトしても、上記リアクションの連続。
のくせ、みんな自分の悩みはカジュアルに話してくる(少なくとも私にはそう思えていました)
大嫌いな「わかる~!わかる~!」という共感。
『本当にわかってるの?』
汚い言葉になりますが『お前らになんてわかるか!』とめんどくさくなっていた時期も短くはなかった……、そういう気持ちを音楽とバンドにぶつけてみたり(笑)
でも、実際のところ性格の問題だけでなく、多くの障害者の方が障害への理解不足による不信感って経験されたことがあると思います。
みんなが当たり前にできることに拘ってしまう……。
頭ではわかってるけど感情が!心が!!それを許さない!と話せば『癖のある人』認定、レッテルが貼られます。
それを自虐的なユーモアに変換するのは世渡りスキルになりましたが、シャレにならない思いを抱えつつ、地道な努力(訓練)を重ねて認知を鍛えてきました。
時間が随分かかったのは仕方ないと思います。
自分が何者か知るために、障害の診断を受けて、それまで過去の努力、大げさに言えば人生を肯定できたことは大きな進歩、気持ちも随分楽になりました。
ただ、いろいろと起こる不都合について、どこまでが障害で、どこまでが性格に起因するものなのか……、そのボーダーラインがわからないと、障害とうまく付き合えないと考えました。
私の性格なのですぐに記録をとって、分析をはじめます(笑)
ただ、知ろうとすればするほど、細かく分析しようとすればするほど、わからなくなるというストレスに悩まされました。
障害を理解するとは一体どういうことなのか??
そもそも自己理解って、障害理解って何???
調べてみました。
障害とは……”障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態”
障害者基本法より一部抜粋
私はこの定義をとりあえず一度受け入れて、日常生活又は社会生活が継続的に制限される状態、もしくはそれにつながる可能性があるなと感じた場合、過去の経験に鑑みながらアラートにしています。
結局、私の場合、上記の状態とは感情のコントロールができなくなるときです。
明らかに不合理な考えであっても頭から離れない、過去によくあったのは漫画文字が「ダメだぁ!!!」みたいな感じて頭の上に常に重くのしかかります。
すごく抽象的ですが、そんなものです。理屈ではなく感情に自分が支配される感じです。
ただ、これを障害によるものだと定義することで、脳が正常ではないということ、これは障害が原因だから嵐が過ぎ去るのを待てばいい、ととりあえずやり過ごすことができます(もちろんツラいの変わりませんが)
あと、ここで私がよくやってしまったのが原因探しです。
何が悪い?環境?社会??他人?自分??とこねくり回して考えると認知の歪みが発動して、よりドツボにはまり、ツラさは慢性化・長期化します。
そしてコントロール不能状態が現れたときには、自分がコントロールできることだけをするようにして、とにかく休む、ゆっくりするようにしています。
障害への意識が強すぎることがアイデンティティとなり、逆にそこから自立していくことを阻害している原因になっていたり、自分の可能性を見誤ってしまうこともあるようです。
障害の知識はネットにもあふれ、私自身がそれを適切に扱えているかもわかりませんし、もっと勉強する必要もあるかと思います。
それに併せて、大切にしたいのは当事者感覚だったりします。
障害起因=仕方ない・諦める 性格起因=努力でなんとかできる
このような紋切り型の認識では障害をもつ当事者、それに携わる方々もいろいろと大切なものを見誤ってしまう可能性があると考えています。
障害(特に精神障害)と性格はなかなか簡単に分類できものではないし、一度その構図から離れてみることもときには必要だということは、当事者の実感を込めて伝えたいところであります。