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わたしにとって障害とは・・・

『障害は個性』なのか?

『障害は個性』最近、よく目にする表現です。 ただ、実は私はこの表現が苦手だったりします。 障害を肯定的に理解しようとする際に使われるように思われますが、障害を美化するニュアンスが感じられ、障害は才能であり能力であるという捉え方もできる表現です。

もちろん、障害を自分の特性として活かし活躍されている方はたくさんいらっしゃいます。
ただ、現実はなかなかそんなに単純化できるものではないように思います。

それぞれの人にとっての『障害』

では、私にとっての障害とは何なのか? またも(笑)生きにくさの話からはじめます。 具体的なエピソードは長くなり過ぎてしまうので控えますが(笑)

まず、私たちが生きにくさについて考えるとき、切っても切れないのは『常識』や『普通』という概念かと思います。
原因が障害か性格なのか、というのはあまり関係はなく、人と何かが違う、周りと何かが違うと感じる違和感、それが挫折や絶望感につながれば、人はどうしたって内省的になっていいきます。
そのとき、白黒思考が強い人であれば、その人にとっての世界は多数派と少数派に二極化してしまいます。

「~べき・~ねばならない」思考が強い人は、『普通』ではない自分を受け入れられずに、理想化した自分に執着してしまうこともあるでしょう。
私はそれらの思考に囚われて、十分過ぎるほどに執着して、ガッツリ生きにくさに向き合ってきました。
障害受容であっても、自己理解であっても『普通』と決別すること、自分の執着を手放すこと、それは簡単なことではありません。 世の中に「方法論」は溢れています。

自己啓発本などの魔法の言葉…、それ自体はとても的を得ているし、ステキなことを言っていても、それを実践し、自分の思考として定着させるには時間がかかります。
認知行動療法も、ある程度考える力とコツが必要だと思いますし、フレームワークができないという方もいるでしょう。

人を選ぶ方法であるのは間違いありません。

ただ、挫折しそうになったり、実際に障害としての症状に悩まされたりしながら手放すことができた執着の先には穏やかな自己受容があります。 自分には得意なこと、苦手なことがあり、いいところ、悪いところがある。 言葉にするとありきたりです。 でも、それが感覚的にしっくりくる瞬間があります。

私は自分が何者かわからなくなって、というよりは、本当に自分のことを受け入れる覚悟ができたから、一から出直すつもりで就労移行に通い、自分の過去を肯定するために障害の診断を受け直したのだと思います。

敢えて前向きに、少しだけカッコよく捉えるのなら、障害というのは”自分と世界を知る手がかり”と言えるかもしれません。

障害から自分を知る

障害があって自分がいるのでなく、障害はあくまで自分の一部に過ぎません。

そして、障害とうまく付き合うことができたとしても、すべての悩みや不安がなくなるわけでもありません。 個性であったとしても、それを美化しアイデンティティーにするようなものでもありません。

ただ、障害を知ることで自分が生きやすくなります。

障害を受け入れ、障害を位置づけることは自分らしさを知る大きな一歩になるのではないでしょうか。

私は生きにくさを感じ、障害を受け入れて、それを取り巻く社会や世界を少しずつ知ることで、自分なりの視点で世の中を理解していっていると思います。

だから言えること…
たくさん、失敗をして、うまくいかないことがあっても、時間をかけて大丈夫!

自分と障害のことをじっくり理解していってほしいと思います。

さて、自己受容が進んだ今の私は、そんな私を好意的に受け入れてくれる環境に感謝しつつ、時折立ち止まっては自分の考えや感情を確認しています。

そして、一人の時間を大切にして、自分が本当に何をしたいのか自分の心に、魂に聞くようにしています。 魂、なんていうとスピリチュアルな表現ですが(笑)穏やかに沸き上がる感情を受け止め、そのときしたいことをムリなくする。 それこそが自分にとっての一番のご褒美であることに気がついた、と言えるかもしれません。