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なぜ”対話”が必要なのか?① ~“わからない”と言えない生きにくさ~

【この記事はこんなことが書いてあります】

  • 障害者が不調になる原因を理解し、コントロールするには時間がかかる
  • 不調になった原因を”わからない”とは言いにくい現実がある
  • 障害のある当事者だけでなく、支援する方も、わからないことに寛容になることで、対話を通じてお互いを理解しやすくなるのではないか…

対話とは?

ということでググってみました。

[名](スル)向かい合って話し合うこと。また、その話。

デジタル大辞泉(https://kotobank.jp/dictionary/daijisen/1977/)

ただ、一般的に「対話」は「会話」と区別するために辞書の意味にプラスアルファの解釈が加えられています。

特に「対話」の英訳である「dialogue(ダイアローグ)」の意味【相互理解のためのコミュニケーション】を強調して使われることが多いようです。

いくつかのサイトを調べ、私がイメージしている「対話」とすり合わせた結果、

人それぞれが持っている異なる価値観を理解する、という前提に立った上で「お互いを尊重して話し合う」そして、それぞれの見聞を広げるきっかけにする。

このような意味で「対話」という言葉を使っていきたいと思います。

不調になる原因を探すことが苦痛になる理由

障害を持っている方、特に精神障害の方の場合、障害とうまく付き合っていくために、心身の不調を適切なタイミングで訴えられることが大切です。

さらに、その原因を理解し対処できるようになることが求められます。復調して社会復帰する過程はもちろん、実際に社会復帰してからは、なおよりその姿勢が強く求められます。

私の勤務する会社は数ある特例子会社の中でも、障害への配慮は手厚い方かと思います。
不調による欠勤が続けば、次に出社した際に必ず上司は面談をして話を聞いてくれます。

原因について話すことで、十分な配慮もしていただけます。

ただ、私はその”原因”について、常に答えをひねり出しています。
会社員として、障害に配慮してもらっている立場として、原因を見つけて答えることが義務と思っているからです。

要するに、それをプレッシャーに感じてしまっているということです。

原因探しは常に手探りの状態

私は毎回起こる不調の原因について、未だに確信を持てたことがありません。
常に複数の原因が考えられる以上、原因を一つに特定してしまうことで、正しい病識が持てないと思うからです。

ストレスなど内因性の問題なのか、気候などの環境の問題なのか、生活リズムが乱れたことが問題なのか…。

上記3つの原因に因果関係があるとしたら、不調を引き起こした元々のきっかけが何かを理解できないとその対処も的が外れたものになるでしょう。

原因については自分で仮定して対処する。
体調や生活リズムの記録をつけるなど、客観的な評価の基準を持つことも大切です。何度も失敗を繰り返し、時間をかけることで自分の傾向が理解できるのだと思います。

私は、その経験が不十分であることがなおさら不安につながり、不調の原因探しについて焦り、執着してしまいます。
そして、原因探しをすることそのものがストレスとなり、日常生活にも影響を及ぼす悪循環が起きます。

実は同じような悩みをもつ障害者は、私の周りに少なくありません。

みなさん、既に就労していて、社会復帰ができている方々ばかりなので、それぞれが手探りで試行錯誤しながらなんとかバランスを取っているようです。

“わからない”と言えない生きにくさ

ただ、これが、就労を目指す段階の方である場合、不調の原因探しが就労への大きなハードルになりかねません。
障害者枠の面接では、自分の言葉で障害を説明し、必要な配慮についても、面接官の方が理解できるような伝え方をしなければなりません。

そのための絶対条件として、不調になる原因を理解し、どのような対処をしているのか具体的に伝えることが求められるのです。

私たちの周囲には医師、支援員、その他福祉関係者、カウンセラーなど…、様々な機関と専門家が存在し、不調への対処方法と原因を探すための相談ができます。

ただ、そこでのアドバイスはそれぞれの見地に立ってのものであり、それらを総括して解釈していくのは「私たち」に委ねられています。

それは、自己責任に委ねられていると言えるかもしれません。
逆に言えば、それだけの相談機関があり、かつ障害の知識にも気軽に触れることができるのなら原因がわからないと言うことは許されない…。

そのように感じてしまうのは私の考えが偏っているからなのでしょうか。

障害と、不調の原因に真摯に向き合おうとしている方ほど、関係する方々からのアドバイスをすべて受け止めてしまい、矛盾した状況でもがいてしまう。

それはとても不幸なことだと思います。

私がまだ就労移行に通っている際、ある利用者さんがいよいよ就労を目の前にして不調に陥ってしまいました。
そのとき、相談を受けた私にこのように話してくれました。

『なんでみんな理由ばかり聞くの?わからないって答えちゃダメなの?』


その方は理由がわからないこと、原因がうまく答えられないことを周囲の人から受け入れられないことに不安を感じていたのです。
そして、私自身も相談に乗って力になりたいという思いから、その方へ原因探しを強いてしまっていたことを深く反省しました。

私は原因について、わらかないままでいることを肯定するわけではありません。

見過ごしてはいけないことは、その方が私との関係性が深まっていくなかで、はじめて『わからない』とカミングアウトしたことです。
それまでは他の誰にも話したことがなかったのです。

もっと自信を持って”わからない”と言い合おう!

“わからない”ことが一番ツラいのはその当事者です。

まずは、そのありのままの気持ちを当事者と周囲が受容して、当事者自らが話せるようにしていくことが大切ではないのでしょうか。
もう少しだけ”わからない”に寛容であってほしいと思います。

もう少し”わらかない”ことに敏感に反応して、一緒に原因について考えてくれるプロフェショナルがいてほしい、と思うのは贅沢なのでしょうか。

当事者が原因に向き合い、自ら話していけるようになるまで、もっと時間をかけてもいいと思うのです。
社会にそれを許す環境があれば、もっと障害とうまく付き合っていくことができる人は増えると思っています。

そして、それと同時に私たち当事者も関係する方々へ早急な結論や解決を求めすぎないこと、時間をかけてコミュニケーションを取っていくようにすることが、原因を探る一番の近道のような気がしてなりません。


現状、障害者福祉において各機関が持つ個人の情報は取り扱いが難しく、一元管理ができていないため、連携がうまくいっていないという問題があると聞きます。

それでも私たちは、情報を集めて原因と向き合うための知恵を身につけていかないといけません。

自分に必要な情報を知り、選択して、必要な人とつながる…。

お互いの”わからない”ことから話し始め、対話を繰り返すことで知恵の一部分は獲得できるのではないかと思っています。

そんな思いから、私は一冊の本とある概念に出会いました。

その話は次の②で紹介させてもらいます。

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